インタビュー中編:ドヴォルザークが描くチェコ

インタビュアー:細田(広報)

ゲスト:須藤(第22回定期演奏会指揮)、山中(インスペクター兼奏者、過去定期では指揮も担当)

ドヴォルザークが描くチェコ

細田: 今回のプログラムを練習していても、過去演奏していても感じていましたが、やはりドヴォルザークの曲からは並々ならぬチェコ愛を感じます。私は演奏しているときにチェコの平野の原風景みたいなものを密かに思い浮かべてたりします。

須藤:(風景が)見えてくる瞬間はやはりありますよね。

細田:今回は、皆さんが各々想像されている、ドヴォルザークが描いたチェコのイメージを教えてください。

須藤:前編の話題でベートーヴェンは都会っ子だという話がありましたが、ベートーヴェンが住んでいたウィーンや、パリと比べても、プラハは田舎のイメージがある。実際はプラハは結構都市で、歴史的にもハプスブルク家の重要拠点だったりして大変栄えてはいたといいます。そのはずですが、なんか開発されきっていないイメージはありますし、ちょっと郊外に行くともう手付かずの自然があったのではと想像しています。

──ドヴォルザークに限らず、チェコの作曲家全般に共通するある種の風情があると思っています。スメタナ、ドヴォルザーク娘婿のスーク、ヤナーチェクなど、みんな憂いを帯びた作風が共通しています。もちろん明るいところもありますが、もうちょっとしっとりして陰りのある感じ。チェコの歴史がそうさせているのかもと考えています。イギリス・スペインみたいな歴史の表舞台に立つ国々ではなく、そうではない国のちょっと日陰者感や抑圧された想いが少なからずあって、それが暗さにつながるのだと思いました。それが曲に乗った時に、郷愁を感じたり、昔の栄華を懐かしむような感傷になり、誰が聴いても心の柔らかいところに響くのではと思います。ドヴォルザークは特にそれが顕著な人だと思いますし、それがボヘミア的情緒なのではと思います。「悲しいわけではないけど…」みたいな複雑な感じ。

──元々ボヘミアンという言葉が、そういう背景を持っていますよね。流浪の民。国を持たないわけではないけれども、それに近い想いを持っていて、自分が知っている昔の強い祖国を取り戻したいみたいな。ドヴォルザークはチェコ語話者ですが、当時のチェコは都市によっては祖国の言葉を喋らず、スメタナなんかはドイツ語話者だったようです。そういう失われた感覚が根底にあると思っています。何かこう満ち足りていない感じですね。ドヴォルザークの人柄の話でも結構ポジティブで穏やかな人だという話があったので、頭抱えて何十年も悩むみたいな感じではないけれども、たまにそういった繊細で柔らかな部分を感じますね。

細田:確かに、ドヴォルザークの曲にはキラキラした華々しい雰囲気の箇所も出てきますが、完全にパーンッと華々しい感じというよりは、それは過去の栄光なのかも。

須藤:過去を思い出す感じね。それと、お祭りや舞踊の音楽とかはもちろんすごく華やかで楽しいものもあり、ドヴォルザークの場合は先ほどの陰りと明るい箇所のバランスが上手く取れています。なので決して暗ぼったい印象はないですが、チェコの風情は仄暗い部分から立ち上がってくるのかもしれません。

山中:そうした感傷もありつつ、自分が受ける印象でいうと、朴訥とした部分ですかね。曲の踊りの部分はしっかり踊りのメロディーやリズムになっているのですが、歌謡的なメロディーはキラキラッと華々しいわけではなく、誠実に語りかけてくる節回しがあり、それが親しみやすさにつながるのかもしれません。それはドヴォルザークに限らずチェコの作曲家の傾向としてある気がしていますが、なんでしょう、あまり飾り気がない国民性なんですかね。

細田:素材そのものを味わうことを好むんですかね。ある民謡のメロディーの、それ自体を楽しむなんていう趣向も、そういうところに由来すると。

山中さんチェコ旅行記

(山中さんがチェコ滞在中に撮影した写真を提供いただき、本項に掲載しています。)

細田:山中さんは、つい最近チェコを旅行されていましたよね。実際にチェコを目の当たりにして、どうでしたでしょうか。

山中:自然環境という面では、「自然の中で」の項でも触れましたが、とても大陸的です。今いる日本はとても山がちな土地なので、それと比べるととんでもなく広大な平野で、そこを流れる幅のすごく広いブルダヴァ川(モルダウ)を中心に街が広がっています。小麦がたくさん採れそうな肥沃そうな大地がどこまでも続いていました。今は切り拓かれているけど、昔はおそらく深い森だったんだろうと想像しました。

細田:ものすごくスケールの大きなところにポツポツと都市があるようなイメージでしょうか。都市の作り方もどことなくおおらかな印象を受けました。

プラハの街並みとその中心を流れるブルダヴァ川

山中:スケールが大きい。その中で1つのシンボルはやはり大河(ブルダヴァ川)になりますね。プラハから田舎で1時間くらいのネラホゼヴェスという村にある、ドヴォルザークの生家に行ってきたのですが、その家もブルダヴァ川沿いなんですよね。

細田:おお、ドヴォルザークの生家ですか。

山中:ドヴォルザークが10歳くらいになるまではそこに暮らしていたらしいです。実家は主には酒場をやっている、酒場兼肉屋兼宿屋だったと言う話です。それがドヴォルザークの人となりの形成に大きく影響を与えたのかなと思いました。

細田:酒場といえば、人が集まるところですね。

山中:そうですね。酒場は街の中心だったと。チェコは現在もビールの一人当たりの消費量世界一位ですし、仕事が終わったらビールを飲みにきて、そこで情報交換をするのが日課になる。そのような生活に密着した酒場を経営していたのだと思います。そこでは自然とバンドが組まれ、音楽が鳴り止まなかったと聴いています。実は酒場を経営していたドヴォルザークのお父さんも音楽が達者で、最終的にドヴォルザークの大成後、お父さんも音楽家になったらしいです。

須藤:ドヴォルザークの後に、なんですね(笑)。

山中:そうなんです。当初肉屋をやっていた頃は、ドヴォルザークにも音楽家になんてならずに肉屋を継ぐように言い聞かせていたそうですよ。

須藤:若きドヴォルザークが音楽をやることに対して、わりとアンチでしたよね、パパルザークは(※ドヴォルザーク父)。

山中:だったはずなんですけれども、自身も音楽的な才能のある人だったみたいで、パパルザークの自筆譜が今回訪れた生家にも残っていました。実際どこまで音楽で生計を立てていたかはわからなかったのですが、最終的に「俺の夢は肉屋じゃなくて音楽家だったんだ」といって、肉屋をやめて音楽家になってますね。このエピソードからも伺えますが、家系的にも音楽に親しみのあるお家だったんでしょうね。

──その酒場で、ドヴォルザークは色々楽器を演奏していたそうです。バイオリン、クラリネット、トランペットなどが入る編成の10人くらいのバンド。ドヴォルザークは早くから音楽の才能を見せ、読み書きを覚えるよりも早くそのバンドの仲間に組み入れられていたそうです。酒場で演奏し、そこにみんなが踊りに集まるといった感じで、それくらいのノリでダンスが身近にあったみたいです。そこまで整っていない、肩肘張った感じではない音楽、みんなといかに気持ちよく踊れるかというのが、酒場では重視されていたのでしょうね。

上:ネラホゼヴェスのドヴォルザーク生家、下:ドヴォルザーク父の自筆譜

山中:あと、ドヴォルザークが生まれ育った当時のチェコは音楽教育がとても充実していたようです。教会にカントールという、教会付きの作曲家がいて、楽団のトレーニングやミサ曲の作曲をしていた。そのカントールが小学校の教師も兼ねていて、小学校の五大科目の1つに音楽があったようです。驚くべきことにネラホゼヴェスは中下流の農村なのに、農民たちの義務教育に音楽がある。音楽は当時教会に必ず必要な要素なので、音楽の才能があればそれで食べていけます。音楽というのは農民たちにとって、お金を稼ぐ実用的な手段だったのでしょう。ドヴォルザークが、生活に音楽がすごく根付いているところで育ったことを実感し、クラシックの一般的な格式高い印象とはまた異なる素朴な一面を捉えた旅でした。

細田:彼自身が才能に恵まれていたのもあるとは思いますが、必然的に音楽の中に身を置いていたし、またきちんとした教育も受けていたしという環境面が、彼の音楽家人生の背中を押したところもあるんだと思いました。

須藤:彼は本当に一般庶民。楽器を弾ける一般庶民と音楽家の壁がすごく曖昧だった時代ってことですよね。現代は壁がすごくあるけれども、当時はあんまりなかったんだろうなと感じましたね。

細田:お金を稼ぐ手段として気づいたらいつの間にか音楽を選んでいたという可能性もありえますよね。

〜後編につづく 次回、メイン 交響曲第6番の見どころにせまる〜