インタビュー前編:プログラム紹介・前中プロの見どころ

インタビュアー:細田(広報)

ゲスト:須藤(第22回定期演奏会指揮)、山中(インスペクター兼奏者、過去定期では指揮も担当)

10月定期演奏会について

細田: よろしくお願いします。まずは今回の定期演奏会についてお話できればと思います。当団の過去の演奏曲を遡っても類のない、全曲ドヴォルザーク作品のプログラムとなりますね。

山中:ドヴォルザーク特集ですね。ドヴォルザークに限らず、同じ作曲家の作品で揃えるというのも私が知る限り初めてでして、挑戦的な試みになります。

細田:ドヴォルザークが数多くの管弦楽曲を書き残した中で、今回特別にこの3曲を取り上げているわけですが、このプログラムに持つ印象を教えてください。

須藤:一般的に、オール・ドヴォルザーク・プログラムを作っても、正直この3曲にはならないと思っています。あまり他とかぶりがないといいますか、ドヴォルザークが好きな人でもあまり聞いたことのない、演奏したことのない組み合わせの3曲だと思います。ドヴォルザークプログラムというと、大体「新世界」(交響曲第9番、第2楽章の『家路』のメロディーが有名)とチェロ協奏曲みたいな組み合わせが多いかと思うのですが、今回オールドヴォルザークのわりにはちょっと渋好みな部分もあるように思います。

山中:本当に渋い選曲ですよね。ただ、ドヴォルザーク作品の共通点もありつつ、取り合わせは様々で、テーマの異なる曲が揃ったかなと思っています。

細田:渋好みはそうですよね、ドヴォルザークの名声を押し上げた交響曲第8番や9番ではなく、比較的若い頃に書かれた交響曲第6番(以下「6番」)をピックアップしていますし。6番はドヴォルザークの作曲家人生においては、中期くらいの作品になりますでしょうか。

須藤:ドヴォルザークの作品を、アメリカに渡った以降を「後期」とするならば、6番は「中期」にあたりますね。3曲の中で一番最後に書かれたのは「自然の中で」で、彼がアメリカへ行く直前の作品です。「チェコ組曲」と6番は、それよりも少し前の作品になり、良くも悪くも演奏しにくいように思います。泥臭さというか、チェコのエッセンスみたいなのは後期作品よりも濃いめかもしれません。実際演奏していて難しくはないですか?

山中:(※山中さんはオーボエ・コールアングレを「自然の中で」、「チェコ組曲」、6番で演奏)たしかに、過去に演奏した8・9番のような、楽譜を見た瞬間に自分のパートはおそらくこう演奏すればよい、という明快さは6番にないかも。大体どの作曲家にも言えることですが、初期の頃の作品は、技法的な方面で作曲家の色気を感じることがありますよね。ここで新しくこれを試してみよう!といった風に。6番を演奏していてもそう感じますし、そういう箇所は演奏しやすいかと言われると必ずしもそうではない。

細田:色気というと、あれこれ色々やってみよう、みたいなイメージでしょうか。

山中:若いが故に、完成形としてこの表現を提示するぞ、といった確固たるものはないように思います。例えばベートーヴェンの第九に合唱を入れてみたケースだと、もう型があった所に、完成形として新しい表現を提示するぞという強い意志を感じます。対してドヴォルザークの6番は、自分の中で色々実験をしているような段階で、アイデンティティー確立前の自分探し中の曲だと思います。

細田:そういった試行錯誤段階の表現のエッセンスを楽譜の中から拾ってくるのを、奏者として苦労している部分はたしかにありますね。須藤さんは、指揮をしていてどう感じますか?

須藤:正直に言えば、まだ達人の域に達した作品ではないという感じはして。これら中期の作品からは作為的な印象を受けます。達人の作品は、何というか本当に自然体なんですよね。今回取り上げる曲からは例えば、「これを縮めてこれとあわせたら面白いぞ」、「これを半拍ずらしてみたぞ」みたいなわざとらしい作為を感じます。そういうところが山中さんの言葉でいう実験という感想につながるのだと納得しました。それらの実験をうまく拾って活かせると、少なくともドヴォルザークの意図には沿いますが、演奏効果が実際にある時とない時とはあるとは思います(笑)。

細田:このプログラム自体、そもそも現代あまり取り上げられない曲を扱う試験的なところもありますし、ドヴォルザーク自身も作風をしっかり確立する前の試験的な曲として書いているといったところですね。一般的なドヴォルザーク作品を扱う演奏会とはまた異なるドヴォルザークの一面を楽しめる演奏会にできればと思います。

ドヴォルザークはどんな人?

細田:この演奏会でもそうですし、ドヴォルザークの作風は親しみやすくアマチュアオーケストラでも取り上げられやすいですよね。これまでお二人共ドヴォルザーク作品に触れる機会が多くあったのではと思いますが、ドヴォルザーク本人にはどんな印象を持っていますか?

山中:才能に溢れた人だとは思いますが、なんとなく親しみやすい印象。曲を通じても、様々なエピソードを通じても、そう感じます。気難しくはなく、主張を押し付けるようなこともあまりない。他の天才的な作曲家だと、命を燃やしてでも何かを成し遂げるみたいな執念を感じる人もいますよね。ドヴォルザークはどちらかと言うとそっちよりではなく、幾分家庭的で、生活を支えるためにお金を稼ぐために奔走しているようなエピソードもある。そこに人間らしさを感じますし、そうした面は曲にもにじみ出てきていると思います。

須藤:あんまり主張を押し付けない・イデオロギッシュさがないという点では、同じチェコの作曲家でもスメタナとは違う気がします。スメタナは例えばの話、彼がブラジルにいても、「我が祖国」(※チェコを記念して作曲した連作交響詩)という純粋なチェコ国民音楽を書いたように思いますが、ドヴォルザークはアメリカに渡ってから、その土地アメリカのエッセンスを自分の作品に取り入れてますよね。スラヴのルーツを大事にしつつも、そこに新しく取り入れた色を載せられるといいますか。思想的には、すごく求心的な民族主義ではなかったし、だからこそドイツ音楽の伝統に自分の主義を落とし込むことができ、交響曲も書いていました。一方スメタナが交響曲を書かなかったのは、ドイツ音楽との線引きがあったからこそだと思います。その点、ドヴォルザークは垣根を作らず柔軟で、色々なものがあわさって彼の独自色を出していますね。ドヴォルザークの作品には、ベートーヴェンやブラームスと同じものを感じ取ることもありますし、ドヴォルザークからしか得られない固有の雰囲気も共存しているのが魅力です。

細田:チェコを背負うんだということが前面に出ているわけではなく、自分が見たもの感じたものを吸収して自分の音楽に載せていて、なんというか肩肘張っていないですよね。

須藤:そう。自分の大事なアイデンティティーもちゃんとありつつ、排他的でないというのを感じる。

山中:一般的に言っても、ものすごくとっつきにくい人ではなかった気がしますよね。ベートーヴェンなんかがもし隣に居たら、話しかけ辛すぎてこの人どうやって扱おうみたいな会議が横で開かれるじゃないですか、絶対に。

須藤:ワーグナーとかも扱いにくそうですよね。いや、あなたがすごいのは分かるんだけども、みたいな。ドヴォルザークを上げようとしてなぜか他の作曲家を下げてしまってますけれども(笑)

山中:(笑)。ドヴォルザークの話に戻りますが、なんかこう温かみといいますか、音楽的な懐の広さを覚えます。

細田:人柄が良かったという話はよく耳にしますよね。そういった情報を抜きにして何も知らないで演奏していても、彼の書くメロディーにはスっとなんのバリアもなく入れるような、ある種の素直さを感じます。

須藤:メロディーの話をすると、例えばモーツァルト・ハイドン・ベートーヴェンなんかは、細かなモチーフを積み上げたり捏ね回したりして何か生み出していくのが基本。対してドヴォルザークは、民謡なり童歌なり、そういうのが根底にあると思います。最初に歌のメロディーがあって、そこから枝葉が分岐したり展開したりして派生している印象を持っています。これっていう細胞(モチーフ)を分裂させて作っていくのではなく、最初から1つの生き物(歌)がある感じ。今回の6番もそんな作りになっていると思います。

細田:おっしゃる通り、1小節の小さいモチーフを色々変形するのではなく、もう少し広い、幅を持ったところからスタートしているように思います。

須藤:最初に素敵なメロディーがポンってあると、それを聴いてああ良い曲だなとなり、それが形を変えていくという展開があるので、自然と口ずさみたくなります。そんな曲ばかりですからね、彼の作品は。

細田:今回演奏する序曲なんかもそうですね。曲の開始5秒で、自然を表す主題と呼ばれる印象的な主題があります。

序曲「自然の中で」の見どころ

山中:今回意識してかどうかはわからないですが、去年の定期演奏会のプログラムとの繋がりがあり、そこに秀逸さを覚えます。去年も今年と同じアプリコホールで、ベートーヴェンの「田園」を演奏しました。これら2曲の調性も同じだし、この曲のメッセージもざっくり捉えれば同じだと思っています。去年の演奏から繋がって今年は「自然の中で」から始められるのが、マグオケとしても喜ばしいことだと感じます。

細田:ズバリ、「田園」と「自然の中」でのメッセージはどこが共通していると思いますか。

山中:一言で言えば自然讃歌ですね。自然への称賛のしかたは色々あり、これら2曲で視点の違いはあるとは思いますが、両作曲家とも間違いなく自然を讃美する意図があったと思います。

須藤:「自然の中で」は、「自然と人生と愛」というテーマで作曲された三部作「自然の中で」「謝肉祭」「オセロ」の第1曲にあたります。3つまとめて1個の曲にするか当初ドヴォルザークは迷っていたらしく、結局3つバラバラに出版することにはしましたが、初演で3曲まとめて演奏したそうです。今回マグオケでは「自然の中で」のみ取り上げますが、観客の皆様にはよろしければ3つまとめて聞いてみてほしいと思っています。「自然の中で」の冒頭の自然を表す主題が、他の曲にも登場します。3曲とも全然違う曲調で、例えば「謝肉祭」は「自然の中で」の静謐な雰囲気とは打って変わってお祭り騒ぎの慌ただしい曲だったりもしますが、3曲に共通したテーマがあり、面白いです。ここまで話しておいて「自然の中で」自体の聴きどころではなくて恐縮なのですが(笑)。

山中・細田:(笑)

須藤:自然讃歌の話からつながりますが、「自然の中で」は、「自分」と「自然(世界)」みたいな対比構造があります。ベートーヴェンも同じ対比構造ですが、あちらはより自然を神様として崇めていて、一方ドヴォルザークは自然をもっと身近に捉えていると感じます。大いなる自然の中にちっぽけで矮小な自分がいるという対比で、結構孤独なイメージもあったり。

須藤:もう少し細かいことをいうと、「自然の中で」は、メロディーはすごくわかりやすいんだけど、中で結構ややこしいことが書いてある楽譜だと思っています。そういう点がまさに自然の在り方を思わせる。ぱっと見綺麗なのですけれども、近寄って見てみると様々な有機物がいっぱいあって、それらが微妙に関連し合いながら奇跡的な調和を保っているみたいな。

須藤:一方、「謝肉祭」になると、自分と同じ人間の集まりや、あわただしい日々の生活みたいなものを表現していて、自分の目の前を人生が通り過ぎていくような感覚を覚えるシーンもある。「オセロ」になるとまた一転して、自分と他の特定の誰かとの愛憎劇、葛藤の話になってくる(※標題はシェークスピアの悲劇「オセロ」に由来する)。三部作共通して、自分と外側の世界との交歓、相互作用を描いていると考えています。

細田:今回の演奏会で取り上げるのは、「自然の中で」のみになりますが、今年のマグオケの演奏をとっかかりにして、後に続く2曲もぜひお楽しみいただければと思います。「自然の中で」と同じメロディーが他2曲でも出てきて、はっと驚かれると思います。

山中:すごくわかりやすく同じ主題が出てきますよね。特に変にいじくったりもせず。

細田:自然を表す主題だけでなく、「自然の中で」には魅力的なメロディーが様々登場しますが、山中さんは弾いていて気に入っているメロディーはありますか。

山中:第2主題の明るいおとぎ話みたいなファンタジックな雰囲気が好きです。チェコのプラハのあたりは、広大な森と大きな川といった、わりと大陸的な自然環境が昔からあったと思いますが、人々の暮らしに身近な自然というとおそらく森ですよね。「森の奥深くに行くと危ない」みたいな要素と、「妖精が住んでいる」といった要素がセットで寓話として語り継がれていたりなど、色々想像を膨らませています。これまでの話でも登場したベートーヴェンの「田園」は、丘があって鳥が鳴いているといった叙事的な自然の描写が基本ですが、「自然の中で」のこちらの主題は特に、もう少し生活に密着した自然を思わせます。自然との距離が近くて、軽やかなメロディーも相まって自然の中に連れて行ってくれるような、そんな親しみやすさが好きですね。

須藤:ベートーヴェンはわりと都会人ですよね。

山中:都会っ子ですよね。そう言う意味だと私たちとそんなに変わらない感覚を持っていそう。「夏休みだ!自然に触れたい!」みたいな。

須藤:「田舎に到着したときの愉快な気持ち」って標題つけてますもんね。(※「田園」の第1楽章)

細田:そのままですね(笑)。ドヴォルザークの方がどちらかというと普段から自然に慣れ親しんでいたのかなと思います。

山中:もっと身体に染み込んだ感覚を結晶化させたところはありますよね。

須藤:ドヴォルザークは晩年交響詩をいくつか書くようになるのですが、その題材はほとんどおとぎ話ですね。「水の精」「野ばと」「真昼の魔女」…、全部メルヘンでちょっとダークファンタジーチックなのですが、それらに出てくる鳩だったり水の精だったりの自然的な要素が人間の全ての悪行を見ているわけです。自然との繋がりを落とし込んだ寓話的要素が、ドヴォルザーク作品の各所に取り込まれているのを確かに感じています。

チェコ組曲の見どころ

細田:「チェコ組曲」も他のオケで取り上げられる機会が少なく、意外性のある選曲だと思います。こちらの曲の特徴を教えてください。

須藤:以前他の団体でも演奏したことがあるのですが、そのときに変な題名だなと思いまして。というのも、「チェコ組曲」の「チェコ」って何だろうという問いなんですけれども、今回マグオケでもう一度振る機会がある中で改めて何がチェコなのかなと考えていまして。ちょっと話が飛びますが、「チェコ組曲」自体はバッハのクラヴサン組曲(※元々チェンバロ用の組曲)のチェコ版オマージュなのではと思っています。ああいった古典組曲はまずプレリュード(前奏曲)が最初にあって、その後にクーラント、ジーグ、サラバンド(※いずれもバロック時代の伝統的な舞曲)などの古典舞曲が並んでいる構成なんです。「チェコ組曲」は、最初に同じくプレリュードがあって、その後の舞曲は古典舞曲ではなく、ポルカ、ソウセツカー、フリアントというチェコ・ボヘミアの伝統的な舞踊が入っている。4曲目のロマンスは舞曲ではないものの、バッハの「フランス組曲」に出てくるアリアのような、歌みたいな器楽曲の枠だと思います。

細田:この曲の成り立ちとして、バッハの古典組曲の型を基本として、パーツをチェコの要素に置き換えてチェコ版を作ってみようとしたのでしょうか。

須藤:意図したかはわからないですが、結果としてそういうものになっていると思います。

山中:「スラヴ舞曲集」のように全曲舞曲ではなく、はじめにただのプレリュードを置いている構成なのもあり、古典組曲を意識している感じはしますよね。

細田:バッハを踏襲しているのもあって、馴染みやすい構成ともいえるのでしょうか。

須藤:2拍子のゆっくりな曲、3拍子の曲、テンポの速い曲…といった小曲が、良い兼ね合いで入っていますよね。

細田:性格の違う5曲が、よい塩梅で20分間の演奏時間の中に収められているので、飽きの来ない作品になっていますね。

山中:各舞曲がちょうどいいバランスで入っているので、それを純粋にエンジョイしてもらえるような作品だと思います。また、舞曲の話に触れますが、踊りはドヴォルザークの幼少期を過ごした生活のごく身近にたぶんあったのだと思います。祝祭のときにも、婚礼のときにも、なんなら飲んで気持ち良くなったら普段から酒場で踊るし、みたいな。

細田:酒場で踊るのはきっとフリアント(※速いテンポの激しい民族舞踊、「チェコ組曲」の終曲の曲想)なんでしょうね。こんなに速いのに一体どんなふうに踊るんだこの曲、と思いながらいつも演奏していますが。

山中:踊りというのは、ドヴォルザークの生活の一部だと思うんですよね。ドヴォルザークの日常のささやかな楽しみだったのではと想像しながら、観客の皆様にもきっと楽しんでいただけると思います。

須藤:「チェコ組曲」を振っているとなんか地元のお祭りにいるような気持ちになるときがあって。踊っている人がいるから自分も踊っちゃおうかな?見ているだけでも楽しい気分だな、みたいな、参加している感じになります。そして4曲目のロマンスはね、そのお祭りの夜のキャンプファイヤーみたいなイメージですよね。ちょっと好きな子として抜け出して星を見ているみたいな綺麗な光景。

山中:まさにロマンス(笑)。私はコールアングレを吹いていることもあり、4曲目を推させていただきます。

須藤:コールアングレの出番はこの曲だけですからね。

山中:はい。冒頭のフルートとコールアングレの掛け合いがあるのですが、こちらはやっぱりソプラノ女性とテノール男性による対話をイメージしています。

細田:口説いているというよりは、幾分素朴な感じですよね。「今日も楽しかったね〜」みたいな。

須藤:全く同じメロディーで掛け合いをしているので、「今日も星綺麗だね〜」「そうだね〜」みたいな他愛もない感じかしら。キラキラしていてすごくかけがえのない感じではありますが、会話の内容は別にないというか。

山中:そうそう、そんなに大したことは言っていない。たぶんあそこで愛は語っていないと思います(笑)。

須藤:ちょっと甘酸っぱくて、後から思い返すとちょっと恥ずかしいみたいな。何の話しているんだろう(笑)。とにかく楽器同士の対話を楽しんでいただければと思います。

細田:須藤さんは、お好きな曲ありますか?

須藤:1曲目のプレリュードが好きです。メロディーは1個しかないし、ドラマティックでもないし、聴きどころのある舞曲でもないんですけれどもね。最初に「チェコ組曲」を聴く人の心を鎮めて調えるといいますか、スッと落ち着いて席につかせて、「チェコ組曲」の世界に誘ってくれるような、そんな不思議な力のある曲だと思います。

山中:この曲に使われている楽器の種類もかなり絞られていますからね。シンプルですよね。

須藤:舞曲でもなんでもないあの曲が、ポンと最初にあると、なんだか座りがいい。

山中:あれが最初にあることが、スラヴ舞曲集との違いを生み出す要因の1つではありますよね。

須藤:素朴なメロディーも好きなんですけれども、あのプレリュードの終わり方、最後の20小節あたりが、その後につながるというか、場を作ってくれる気がします。半音階でだんだん遅くなって、最後讃美歌みたいな和音で、日が暮れていって終わるみたいな。聴いていてインスピレーションが湧くし、ただぼーっと同じことを繰り返しているだけの曲ってわけではない。

細田:最初にプレリュードがあるのとないのとでは、この曲の完成度が違ってくるかもしれませんね。

須藤:その通りで、プレリュードがないのであれば「スラヴ舞曲集」の抜粋で良いわけです。パッケージとして組曲を楽しめるのもこのプレリュードが一役買っていますし、存在意義としても聴く人にとっても大事な要素だと思います。

〜中編(ドヴォルザークが描くチェコ編)につづく〜